昭和四十五年九月三日
x 御理解第百節
「目出度目出度の若松さまよ、枝も栄える葉も繁ると云うではな いか、金光大神は、子孫繁昌、家繁昌の道を教えるのじゃ」
誰でもが願ってやまない子孫繁昌、又は家繁昌、それには自ずと、道があるのだと教えておられます。
金光教の御信心を頂いておれば、このようなおかげになるとゆう事ではない、金光大神は、そうゆう道を明らかにされた、そうゆう道を行じられ、金光大神御自身が、そうゆう道を教えられた。
その道を私共が、体得させて頂かないかぎり、一時の繁昌はあるけれども、子孫繁昌とゆう事になってこない、親の代より子の代、子の代より孫の代とゆうように、繁昌が段々、いわゆる穂に穂が咲くとゆうような、おかげになっていかなければならん。
そうゆうおかげを、目出度目出度とゆう訳なのです、そこで私は今日は、この御理解百節の、金光大神が教えられてあります中に、この事を大事にする、この事を大切にしてゆけば、家繁昌の道、子孫繁昌の道に、つながる事が出来るとゆう事を、天地の心、とりわけ、天の心とゆうような事について、聞いて頂きたいと思う。
今日、私、御神前で御祈念中、大根おろしのね、沢山どんぶりにしてある、…… あれはジャスタ-ゼですか、胃の働きをよくするもの、どんなに頂きすぎましても、あれを頂きましたら消化が良くなって、気持が良くなって参ります。
けれども矢張り、あのおろしだけでは頂けない、あれに、ちょっと味の素なり、醤油なりを、かてさせてもらう、いわゆる醤油をかてゝ頂きますと、なんぼでも頂かれるように美味しい。
それが、どうゆうような事だろうかと思わせて頂いとったら、天の心と、ゆう事を頂いた。 そこで教典を開かせて頂いたら、御理解百節であった。
私は仲々、いわゆる天地の心を心としてと、申しますし、簡単に云やそれだけの事なんですけれども、その天地の心を心とする事がちょっと難しい事
例えば私が、成り行きを大事にする、大切にするとゆう事は、こゝにお参りする子供でも知っておる、いわゆる御事柄を大切にするとゆう事なんです。
その成り行きを大切にするとか、御事柄を大切にするとゆう事は云うなら、合楽の信心のシンをなすものだと、ゆう事になります。そこで、そんなら事柄を大切にするとゆう事は、どうゆう事か、成り行きを大事にするとゆう事は、どうゆう事か。
皆さんなら、どうゆう風に答えられますか。 私はね、こゝのところに、合楽の人達は、私自身がそれに一生懸命取り組んでいるのですから、皆さんもそこのところを、本気で取り組ませて頂かないと、どんなに素晴らしい御理解を頂いても、それが本当の事に、いわゆる血にも肉にもならないでしょう。
実にも花にもならないでしょう。
成り行きを大事にする、大事にするとこう云うが、成り行きを大事にするとゆう事は、どうゆう事かと、皆さんどう答えますか。
「それはもう、成り行きを大事にする事ですたい」と、その成り行きを大事にするとゆう事は、どうゆう事か、大切にするとゆう事はどうゆう事か。
やっぱり煎じつめてみらんとですね、自分がこれ程、成り行きを大事にするとか、御事柄を大事にするとか、と云いながら、一つも大事にしていない証拠に、おかげになっていない、もう、言わば二十年間、私はこの事を言い続けてきた。
皆さんがどれだけ、それを大事にするとゆう事を、身につけてきたであろうか、成り行きを大事にしなければならない、とゆう事はね、大切にするとゆう事はね、その事を有難く受けると、ゆう事なんです、大切にするとゆう事はね、言わば、大切に取り扱うとゆう事、それを有難く受けるとゆう事。
もう余りにも簡単な事ですけれども、実際出来てないでしょうがお互い、有難く受けよらんでしょうが、やっとかっとでしょうが、よろよろしよるでしょうが、場合には、こうゆう事だけは頂かれんと云うて、向うに押しやっているでしょうが。
二十年間私が言い続けてきた事、これは合楽の命だ
最近では、竹内先生のお話じゃないですけれど、御事柄を大切にするとゆう事は、いわゆる力を以て治めてきた、物やら金やらで治めてきた、と、これは政治の事。
けれども、もう、力やら物やら金やらでは、いけない時代になった、いわゆるその事柄そのものをです、本気で取り組んで、大切にしていくとゆう事だと、それを、その事を情報化時代と云う、とゆうように説明されたと、東京での、市長さん方を集めてのお話のシンが、それであったとゆう事である。
それを聞きながら、本当に合楽で今頂いておる、今迄稽古をしてきた事がです、いかに例えば、信心の云うなら先端を行くものであるか、トップを行くものであるかと、ゆう事を痛感して、今更ながら有難いと思うたと、云うておられます。
そうゆう大変な事、云うならば今の時代にです、ピッタリ、マッチした生き方、それは信心させて頂いて、まず力もいります、物もいります、尚更、御物を大切にする事もいります、甘木なんかは徹頭徹尾、そこのところに徹しておいでられたんです。
ですから、そうゆう信心をふんまえて、言わば御事柄を大切にするとゆう事をです、言わば成り行きを大事にするとゆう事をです、どのような姿勢で、受けていかなければならないか、そこに、徹底してみるとゆう発心をしなければならない。
ところが、ちょっとした問題が起きて参りますと、もう自分の心に頂きかねておる、本当にもう、問題にもならないような事が、心にかゝっておる、その為に何日も苦しんでおる。
成り行きを大事にせにゃん事は、分かっているけれども、これだけは許されないとか、これだけは、ひと口向うに云わなければと、どうぞ神さま云わして下さい、と、云わして頂く事を願いよる、黙って受けてない。
そうゆう時にです、私共は、やっぱり有ります、そうゆう事が、そうゆう時にです、いわゆる大根おろしを食べたら、どうじゃろうかとゆう事、胸につかえて、どんこん出来ん時にです、大根おろしを頂かせてもらう。
今日は、その大根とゆう事を大きい根と、一つ頂いて頂きたい、大根だけじゃ食べにくいから、それをちょっと醤油をさす、その醤油とゆう事を修行、それにちょっと修行をさせてもらう。
まあ大根と云やこゝではいつも、苦労なしとゆう意味で御理解を頂きます、苦労のない信心、大根のような信心と云う訳です。
けれども私は、とりわけ今日は、天の心とゆう事をね、私は大根の地の心とゆうのは、大変難しい気がするですねえ、辛抱がいるような感じが致しましょう。
地は耕した上にも耕さにゃならん、心を耕す時にはやっぱりきつい、又、黙って黙って受けぬかせてもらう、いわゆる辛抱が必要、これは仲々難しい思いがしますけれども、天の心と云や、与えて与えてやまない心と云われますから、天の心は案外容易い、容易と云うよりこれは、もう与える事の喜び、与える事の楽しみ、だから容易いでしょうが。
与えて与えてやまない心、それは又、もうちょっと深く頂いてみますとです、与える心は又、受ける心とゆう事にもなります、
そこで百節の、目出度目出たのと、こう云われる、目出度い私共に、本気でならして頂こうと、あの人間は、ちった目出度いのじゃなかろうか、と、あの人間はちった目出度いばいと、ちょっと、ぬけたような人をそう云います。
いわゆる馬鹿と阿呆で道を開けと云われる、そうゆう馬鹿と阿呆の心を、私は、目出度い心だと思う。 目出度目出度とゆうおかげを頂く為に、まず人間が目出度くならにゃいけん。
いわゆる。祝い賀ぶ心、そこでその与える心なんですけれどもね色々与え方がある、本当に与えとるのじゃない、条件があって与えておる、これはもう、与える事にはなりません、汚いものがついている。 皆さんも御承知でしょう、森の石松の一席ですねえ、
金比羅参りをしておる道中です、たまたま親分衆の話が出た、その中に、自分の親分の次郎長の話が出てきた、しかも、その次郎長の中に、強い子分たちが沢山揃っておる、二十八人衆とゆう事まで詳しく知っておる。
その時に石松が、気分が良くなった訳です、俺の事もちがわんごと、これが云うじゃろう。「それで大体次郎長の子分にそんなに強いのがおるか」「それは強いのが揃うておるよ」と云うて、こう云う、大政、小政、法 の大五郎と、ずっとこう云うところが、どっこい自分の名前が出てこない、その間にね「飲みねえ飲みねえ、食いねえ食いねえ、とゆうところがあるでしょう。そうゆうね、そうゆう例えば、自分がおだてられ、又は、自分がね、気分が良い、又はそこに条件があってです、飲みねえ、食いねえとゆう事ではいけないとゆう事です。
天の心とゆうのは、そんな心じゃないです、無条件、その証拠には、とうとう森の石松とゆう、自分の名前が出なかった、出なかったらどう言ってますか、「よう食うたな、こん奴ばっかりは、ちった食いねえ食いねえと云うても、少しは遠慮せんかとまでなってくる。 そうゆう例えば、食いねえ食いねえ的なものでですね、美しいとか、天の心とかゆうような心に、間違ってはならない事です。けれども、与えて与えるとゆう事はね、受けるとゆう、大地の心とゆうような、難しい辛抱とか、修行とかと、それはどんな汚いものを持って来ても、黙って受けるなんてゆう事は、矢張り難しい。
どんなに成り行きを大事にしろ、大切にしろ、御事柄を大切にしろと云われてもです、もう本当に、僻々する程しのものを持って来られましてもね、そこに不足も出ろう、いやこれは受けられんとゆう事にも、なろうけれどもです、そのように難しいけれども、天の心とゆうのは、それと反対、与えて与えてやまないとゆうのですから、だから楽でしょうが、自分の持ってるものを与えるのですから受けんならんとは、違うでしょうが。
今日は、とりわけ、そこのところをですね、ひとつ目出度くならなければ、いけんとゆう事なのです。
そうゆう、云うなら自分は美しいとも、眞心とも感じていなくてもです、無条件に与えて与えてやまない、自分の持ってるものを、人の喜ぶ事の為に、世の中の為に、与え尽くしていくとゆうような心の中に、限りなく与えに与えられ、恵まれに恵まれていく、
いわゆる家繁昌、子孫繁昌の道が、そのような信心から、私は、そうゆう道がついてくると思います。
皆さん本当にこゝで、御事柄を大切にするとゆう事よ、本当に御の字をつけなければおられない程しの思いでね、頂いて下さらないと、いわゆる事が成就しませんて、
只事柄だけじゃいかん、御の字をつけにゃいけん、
神様が、例えば大坪総一郎に、これを受けてくれよと、云うておられるのですから、御の字をつけなければ、その中には、例えばソロバンども持っとったんじゃあ出来ない事になってきます。
今度来た「玄潮」の中に、鹿児島の行徳先生が「忘れられつゝあるもの」と題して書いておられます事の中に、御伝記「金光大神」をひいて、お話になっておられます。
御伝記、金光大神に、「今の世は知恵の世、人間がさかしいばかりで、身の徳を失うておる、世の中で一番汚きは慾、ソロバンを離せ、我が利口なと云うて、細工をしてはならぬ、発明ぶる事をすな利口、発明、智恵分別を出すな」とある。
今の世は智恵の世、百年前に云われてあるが、現代もこの言葉に当てはまると思います、最後にこうゆう事も云うておられます。
「何もかもふところを肥やす事、損にならぬ事、そして自分の楽しみを追求する事に忙しい、今の世の中で時には 自分が持っておる願いとか、智恵とか働きを、力一杯人間の幸せの為に、人の喜ぶ事の為に投げ出し、使わせてもらったらどうだろう、天地へのお返しとして」と、
天地へのお返しとしてです、自分の持っているものを、いっぱい出してみらんかと、ですから、物とか財とかが出しにくいなら、ひとつ心を出したらどうでしょう、それが眞心なんです。
それこそ、無条件に思う、無条件に祈る、誰彼の事を、そうゆう心を出し尽くさせて頂く心、これは、与えて与えてやまない心に通じるのです。
私は今日それを、天の心と申しました。同時に私共も、地の心は難しい、難しいけれども私共が、少し心がけさせて頂いて、神さま今日も、どのような事がありましても、成り行きを大切にさせて頂きます、御事柄として頂きます、とゆう私は、その為にどのような事でも受けられる事の為に、、修行しておく、修行しておくから受け良い、ポカッと来るから、ヨロヨロする、そんな事じゃいけん。私はこゝで本当に、修行させて頂くとゆう人はです、この御事柄としてのそれを、大事にするとか、成り行きを大事にするとゆう事を有難く頂く事だと、ゆう事ですよ。
それを有難く頂けないところに、胸が張りさけるようにあったり腹が立ったり、ひと口云うとかにゃとゆう事になってくるのです。自分の心に治められない、その事の為の修行をしておらんから。
今日もどうぞ神さま、あなたのお心に適いますように、とゆう事は、もちっと具体的に云うと、今日一日の在り方の中にです、どのような事があっても、それを合掌して受けていく、今日の焦点でありますところの、すべての事を有難うございますと、受けれる自分になろうと、だから、とりわけこの事を、祈りに祈らせて頂き、その事の為にさゝやかながらも、修行しておかなきゃならん。
どのような事でも、受けさせて頂こうとゆう心が大きな心、これが大根、だから、それだけではいけんから、その為に少しお醤油を落させて頂く、とゆうようにです、その為の修行をさせて頂いておる、問題が大きければ大きいだけ苦しい、例えばそれが、腹の立つような問題であればあるだけ、かえってその事を、有難いと受けられる心が、そこから生まれてくる。
全ての事を有難うございますと、受けてゆけれる心、その為に私は、修行しておるとゆう事、それを今日は地の心として頂いた。
与えて与えてやまない心、そうゆう心、それはひとつお互いが、底の抜けた目出度い、私にならなければならない。
それは、持たないものをだせと云うのではない、自分の持ってるものを、しかも無条件に、いわゆる森の石松的な、食いねえ食いねえだけではいけない、後から、「しもうた、やらにゃよかった」とゆうようなものが伴うておったんでは、もう天の心に反する。
どこまでも無条件、けれどもこれはです、大根、いわゆる苦労がない、与えるとゆう時には、苦労がない、嬉しい、有難い、受けるのは仲々難しい、それには修行がいる、そこにも大根。
その大根を頂いておるとです、どうゆう難しい事でも、バスッと下るような、おかげが受けられるとゆう事を、申しましたですね、どうぞ今日、私が申しました事を、ひとつ本気で成り行きを大切にするとか、御事柄として頂いていくとゆうようなです、それこそ、二十年間言い続けてきた事ですから、皆さんもよう分かっておる筈なんだけれど、そんなら御事柄を大切にするとか、成り行きを大事にするとゆう事は、どうゆう事かと、一辺自分で煎じつめて事が、お互いあるだろうか、煎じつめたら、どうゆう事になるか。
簡単ないつも言っておる事のようであって、仲々出来ていない、それは有難く受けるとゆう事、しかも徹する事なんだ、それが底が抜けた心なのだ。 これは受けられるけれども、これは受けられんといったようなものでは駄目、こうゆういき方で、いかして頂くかぎり、私は金光様の御信心はね、特に合楽でおかげを頂いて、修行しておる皆さんはです、本当にこゝに徹し、こゝのところの徹しさせてもらうところから、生れてくる体験を、身につけていかなければ、いつまでたっても、合楽の信心を卒業する事は出来んですよ。今日はとりわけ、有難うございますで、何もかも受けていこうとゆう事を、言わば焦点にして、信心の稽古をさせて頂こうとゆうのですから、今日の信心修行こそ、本当に家繁昌、子孫繁昌の道につながる、おかげの頂けれる、言わば信心の稽古をさせて頂く月だと、ゆう事になる。
そして、そこから生れてくる体験がです、このように有難いものである事が分かってくる時、それがもう、身についてくる時、それがもう当たり前の事としてです、受けてゆけれるようになる、そこ迄信心を極めていきたい。
目出度目出たの若松さまよ、枝も栄える葉も繁ると云うではないか、金光大神は、子孫繁昌 家繁昌の道を教えるのじゃ。と、
金光大神御自身が、そうゆう言葉を使っておられないけれども、御自身の生きられ方、御生活そのものがです、天地の心を心としてそのまゝ、表しておられ、行じぬいておられたところに、現在の子孫繁昌の道につながるおかげが、表れておるんだと思います。
それを私共の上に頂く為にです、今日の御理解を、……
今日の御理解は、もういつも頂いておる御理解なのです、それをもう一辺、ひとつ吟味してみて、頂いておりながら、それが消化してないとゆうところに、かみ下されていない、自分のものにまあだなっていないから、血にも肉にもなっていないと、ゆうところです 反省させてもろうて、愈自分のものにさせて頂く おかげを頂きたいものですね。 どうぞ。